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JR九州石井初代社長が「どこにも負けない787つばめを作ったよ」と笑顔で回想されてました
12:36 超特急と比べて最高速度が1割も2割も高い列車に定期券のみで乗れるなんて、贅沢な時代だ
この強い想いを実現してた人たち、まさに憧れの職業だったろうし本人たちもプライドを持って仕事をされてたんだろうなあ
当時日本で交通機関の花形といえば鉄道でしたから優秀な人がたくさん集まったそうです!
彼らと十河さんに現在の東海道新幹線というものを見せてあげたい絶対感動するだろうなあ...(のぞみの停車駅に至っては最速時の燕とほほ同じだし....
ほんとほんと!私が往復切符台を払うから、ぜひ乗せて差し上げたい。あなた方の努力がこうして実を結びましたよって。
特急「燕」の生き証人ことマイテ49-2、現在でも車籍が残ってますね。
SLやまぐち号に連結されてる時に乗ったことがあります。新型の旧型客車(?)に変わった今でも動かせる状態で残ってるんですね。
現在も残ってるのは驚きですね
今では貴重な走行可能な3軸ボギー車ですね。1号編成が走っていた頃は供奉車の一部に3軸ボギー車がありましたが、久しく走っていませんから。
@@DDwaizen たたたたたたたたたちたたたたたちたたちたちたちちたたたたたたたちたたちたたたたたたたたたたつたたた4
マイテ49 2は当初「はと」と共通の予備車で、レギュラーはよりクラシカルなマイテ39 1·21でした。青大将色になったあたりから、マイテ39の老朽化が目立ってきたので、運用機会が増えました。ちなみにマイテ39/49とも、元々は太平洋戦争前の特急富士用の展望車でした。
昔、宮脇俊三御大の子供向け絵本で読みましたが凄まじいアクロバットでしたね。現在ならほとんど採用不可な施策ばかりです。
ある意味究極のスピードアップですね
3気筒のC53牽引時代は、機関車のボイラー下に人が潜り込んで、走行中に中央クランク部の給油作業に当たっていたとか。
サンライズ出雲瀬戸が6時間半程度で大阪ー東京を結んでいることを考えると、やっぱり電車特急は速いですね、、
その6時間半も1960年代に特急こだまで実現しましたね・・
因みに現在、東京〜大阪の在来線最速はJR貨物のスーパーレールカーゴで、東京貨物ターミナル〜安治川口を6時間15分程度だそうです。ただ、これもまだ余裕があって運転最高速度の130km/hを出せるのはJR西日本区間だけだそうで、ほぼ全区間で最高速度を出せれば6時間を切れるのでは?
重箱の隅を突く様で申し訳ないですが、ミキ20という形式が付いたのは燕での運用が終了してからだそうです。それまでは、C51の水槽車という扱いです。
燕運用中の水槽車は機関車の一部と言うことで、動画に登場した水槽者の写真の左側にナンバープレートが写っているね。
そういう「様々な努力」という基礎の上に今があると考えると、いっそう感慨深いです。
鉄道の歴史は深い・・
最高速度が時速100㎞なのは機関車の性能や狭軌鉄道の制限ではなく、非常制動をかけてから600m以内に停車しなくてはいけないという規定によるものですそのため、蒸気機関車が時速100㎞で電気機関車が時速95㎞に制限されていました実際にC51形は軌道的に劣る37㎏/mの軌条で時速120㎞で走ったというネタがありますし、運転士の自己申告であればC50形が時速130㎞で走り、逆機のC11形が時速140㎞で走ったというのがあります
(果たしてそのスピードは本当なのでしょうか・・?)
まさか大井川鐵道のトーマスもその気になれば…?
動輪の回転数を300回転で100km近く出すように設計したわけですが諸外国では普通にそれを上回る回転数で走っていたので100km以上出したというのもおかしい話ではありませんね。
@@都リチウム信頼して良いものだと思います。世界にはマラードをはるかに上回る速度で走ったという非公式記録もあります。
これでも「もっと早く」というニーズは止まらず、弾丸列車計画→新幹線につながったんですよね。「弾丸列車」の名は海外の方が残っているらしく、新幹線を指す語として“Shinkansen”と“Bullet Train”がどちらも使われているようです。
ある意味新幹線の先駆けと言えるかもしれません
@@都リチウム 東海道は弾丸で作りかけていた箇所のお陰で早期開通が出来ましたが山陽ではその弾丸の作りかけが反対運動で確保出来ずに予定が狂ったそうな。
@@maruhiroya417 新尾道駅あたりはそのあおりですよね。本来は山陽本線に沿う形だったのですが…と
@@kakeruyamato4364 西日本はPヨクが強い事が図らずも先日のあのテロ事件ではっきりとわかりました。
陸上の400mリレーのバトンパスやF1の2.5秒のタイヤ交換に匹敵する、時間短縮への卓越した技術の採用は目を見張る。
品川駅前にあるつばめグリルは燕がなくなるのを惜しんだ人たちが名付けたらしいですね。
今の新幹線みずほとつばめは序列が逆のほうがいいな。最速達:つばめ準速達:さくら各停:みずほてな感じで。
「こだま」と昔の「とき」もそうですが、在来線の名門列車が下位種別に使われる例が多いですね
JR九州は特急「つばめ」にJR各社から許可を貰ったとか‼️それだけ伝説の列車名今では九州新幹線に使われてるけど新大阪~鹿児島中央の速達列車は「みずほ」準速達は 「さくら」「つばめ」は九州新幹線のローカル列車になってしまった普通なら「つばめ」が最速達「さくら」が準速達「みずほ」がローカルでも良いのでは?
伝統と格式ならそうなりますね。富士は恐らくリニアで復活だろうね。
あの「ひかり」だってかつては準急の列車名だったんだから名前が巡るのはそれはそれで楽しいですね
リニアに格式とやらがあれば富士も可であろうがもっと違う愛称になるだろうな。
6:14 「走行中に機関車切り離し」これについての補足私見です。宮脇俊三氏の『増補版 時刻表昭和史』(角川文庫)にはこうあります。「約四〇分かかって最高地点の御殿場まで登りつめると補機を切離す。この作業は走りながらおこなわれた。御殿場駅の構内にかかると補機は連結器を解放し、制動(ブレーキ)をかける。これで切離し完了である。走行中の補機切離しはさしたる離れ業ではなかったらしく、「燕」のほか「富士」も「櫻」も、さらに普通急行もおこなっていた」(26ページ―28ページ)上記の文を読む限り、走行中の補機切離しは「離れ業」ではないように感じます。この動画の通り、初代「燕」が離れ業を連発していたのは事実です。いちばんの離れ業は、何といっても走行中の機関士・助士の交代ですね。
実際、某紅茶の国はノンストップ運転と途中駅停車を両立するために走行中に客車を切り離したこともあったようですし、2002年まではセノハチで実施されていたようですね。
@@tetsuokun5026 さんセノハチの補足、ありがとうございます。Wikipediaで見た記憶はあるのですが、出典を明示できず、あえて言及しませんでした。
ちなみに、この走行中切り離しの作業は、最初はフロントデッキに作業員を乗せて手動で行っていたそうですその後は走行中に車外に人が出てはいけないと規定されたため、手動による走行中解放や走行中の乗務員交代などが出来なくなりましたそのため、その後の走行中解放は連結器に空気シリンダーをつけて運転席の操作で連結器を解放するようになっているので、特に離れ業ではなくなっていますまったくの余談ながら、群馬県の碓氷峠鉄道文化むらに保存されているEF59形には自動解放装置付きの連結器が装備されているので、間近で実物を見ることができます
@@電光刑事-u4c さん補足ありがとうございます。走行中に人が車外にでれば、そりゃあ「離れ業」ですよね。
@@meitoku5581 ちょうどそのEF59は瀬野八補機として活躍していた車両です
水槽車連結採用前に検討されていた給水方式が、当時アメリカの東部ペンシルベニア鉄道が採用していた、ウォータースクープ方式も検討された。ウォータースクープ方式はレール間にピットを何kmに渡り設けてそれに水を満たし、炭水車の底に伸縮式の吸水口を設置。ピット区間に入ると吸水口を伸ばしピットの水を走りながら炭水車に汲み上げる方式。ペンシルベニア鉄道では、蒸気を使って吸水口の操作を行っていた。当時の映像では、ペンシルベニア鉄道の蒸気が減速せずに水飛沫を上げながら給水しているのが見受けられる。
イギリスのフライング・スコッツマンでも同じ方法で給水していましたねぇ。無補給で700キロ超は無理でしょうから。
子供の頃 特急つばめ号に乗車していました。通過する駅でも駅長さんがホームで待ち 運転手さんと敬礼を交わしていたそうです。
国鉄にとって燕はどんな特急よりも特別扱い。超特急と付くだけあって速さへの執念は凄いの一言に尽きるね。人気を博したと言っても当時の特急は気軽に乗れる列車じゃなかったし一等なんて絶対に乗れない。格で言うと今の特急は、燕の足許にも及ばないよ。
格式の高さで言えば「キャデラック」みたいな御大ですかね?
国鉄バス~JRバスのマークもツバメだし、現ヤクルトの球団は国鉄スワローズとして誕生。燕は、国鉄そのもののシンボルだった。
特急もここ100年で大衆化が進みましたね
@@都リチウム 特に特急の大衆化は民営化されてから一気に進んだね。
昭和30年代前半では、総理大臣でさえ飛行機をなかなか使えなかったようだ。テレビのニュースで、総理大臣が大阪へ行ったり、東京へ戻ったりの時は、EF58の牽くつばめ号がホ-ムに滑り込んで来る場面が映されるのが恒だった。あの場面を集めたら、EF58の図鑑が出来る程だろう。
他にも①遅れそうなものなら前を走る全ての列車を退避させてまで燕の定時走行を守った②東京、大阪でデルタ線を使って上りでも常に1号車が先頭、展望車が最後尾になるようにしていたなどがありますよね
このデルタ線転換は、「富士」「櫻」などでも実施され、戦後も客車特急では普通に行われていたそうです。博多駅折返しだと香椎線と今はなき勝田線を使って方向転換していたそうです。そういう設備がないところですと一両ずつ転車台に載せたとか。
@@N--T 博多特急は方向転換が面倒過ぎて、三等車をスハ44系からナハ10系に交換したんだとか。下関は一両ずつ転車台に載せていたはずですが、後年の関門トンネル建設を考えると将来の転用を見越した引き上げ線とデルタ線を作れなかったものかと思いますね。
@@北の独居 博多での方向転換は戻ってくるまで2時間以上掛かったそうなので、やめてからは号車札を取り換えるだけにしたそうですね。
@@N--T 清掃やカバーの交換は方向転換中にやるにしても、2時間以上も時間を取られるなら、そりゃそうなりますね。
これこそ本当の”特別”な急行列車ですね
私の知り合いの鉄道省のお役人のお嬢さん(と言っても最近90ン才でお亡くなりにました)が言うには「特急富士の1等車には一般庶民はいくら運賃が払えると言っても絶対切符を売ってもらえなかった」と言っていました。彼女は戦前からの筋金入りの「鉄子」さんで、どうしても特急富士の1等車に乗りたくて乗りたくて、鉄道省官僚のお父様におねだりしたそうなのですが、お父様からそうやって言われて断られたので諦めたと言っていました。
燕は昭和29年の記録映画「つばめを動かす人たち」でその栄光の一部を見ることができました。C53は中央シリンダーのビッグエンドに走行中給油という極めて危険な保守を行っていたとか…。
当時の鉄道省もかなりアクロバティックですよね・・
@@都リチウム さんへ、国鉄破綻シリーズ、大変面白かったですよ。C53への走行中給油のエピソードは「国鉄時代」に掲載されており、非公式な保守作業だったようです(当然ですが)。
「つばめを動かす人たち」はこのサイトで見られるけれど、最期にC62の乗務員が花束を貰う理由が謎。これが2年後だと東海道本線全線電化でC62の牽引が終わるので花束は有り得るのだが。そして、「つばめを動かす人たち」の音楽を担当した伊福部昭氏は「つばめを動かす人たち」と同年に「ゴジラ」の音楽を担当したせいか、「つばめを動かす人たち」には「ゴジラ」風味を感じさせる場面が有る。なお、伊福部昭氏は前年(昭和28年)の記録映画「生れかわる客車 (木造客車から鋼体客車への改造が題材?)」の音楽も担当している。
@@北の独居 交通科学館でゴジラっぽい音楽を聞いた記憶があるわ
@@TheBikkuri 「つばめを動かす人たち」が上映されていたのかな?
燕はのぞみ号、富士と櫻はひかり号みたいな特急だったんだなぁそら速い訳だ
栄光の国鉄型特急の代名詞の超特急燕の真実を知る良い機会になりました。有難うございました。東海道で産声を上げた超特急燕も東海道/山陽新幹線の登場に伴い、西国に追いやられてしまう羽目になりましたが、九州で復活したときは、嬉しかったです。山陽路では電ハネ583系も営業運転で採用されていましたね。
まぁ、山陽以降のつばめはスピードの象徴というより「南に行く渡り鳥」という意味合いで名乗っていた感じでしたね、交直流車になった時点で自由席が出来たりして一気に大衆化が進みました。
JR九州にとって(というか国鉄九州)は、つばめは九州動力近代化の象徴だからね
『つばめ』を、旧型のC51で高速運転を実現する為に、性能の底上げの為に高カロリーの粉炭をピッチで固めた特急列車専用の練炭が開発されたとか。生の石炭と比べると火付きが悪い欠点もあっても、黒煙とシンダの低減の効果もあってサービス向上に繋がったんですって。
停車駅でも151系こだまも登場時は横浜~名古屋無停車だったような気がします。その後静岡も停車駅に加わったみたいです。今の時代の昼行長時間無停車特急列車は、サンダーバードぐらい。
その当時も走行中に運転手交代をしてたと聞いた。富士川鉄橋の上なら危険要素も少ないし。その後、静岡駅全停車にして運転手が交代したらしい。
安倍川だったと思います走行中の交代は最近まで近鉄名阪特急の雲出川でも行われてましたねえ
燕の水確保のために考えられた有名な方法に「ウォーター・スクープ」もあるな線路の中央に水槽を設けて機関車から下ろしたパイプで水を掬い上げる、というイギリスやアメリカで採用された方法が日本でも検討されていたらしい
はつかり、はと、とき、いずも・・・新幹線もいいけど長距離特急、残して欲しかったなぁ短距離需要、絶対あると思うんだけどはやぶさやあけぼの、急行八甲田乗った記憶はいまでも宝物です
特急「あかぎ」も縮小傾向の現在は短距離需要も新幹線で間に合ってしまう時代・・
まあ「いずも」はサンライズ出雲としてサンライズ瀬戸と共に最後の夜行列車ですね‼️
東海道新幹線開業時は、国鉄も意識して在来線優等列車を残したものの、出張族の多い当時は会社の経費で落とせる新幹線に客が集中したので、国鉄が方針を改めたと言う噂が有るよ。そうだとすると”世界最速の通勤電車”は生まれつきと言える。
何故、新幹線には「つばめ」の名前、採用しなかったんだろうな? (プロ野球時代も、国鉄スワローズ(金ヤン,A,の頃)だったのに)
@@Kマサヒロ-w6l 東海道新幹線開業時に既に電車特急「こだま」があり、素直に、その電車特急から取っただけなのでは?いくら「燕」でも、電車特急には負けるだろし。(たしか、電車特急の「こだま」は、片道6時間台だったような)
昭和5年生まれのうちの親父(もちろん鬼籍)が幼稚園の時、お昼に神戸駅発の東京行き特急燕号は流線型の蒸気機関車が牽引しとったので昼食もそこそこに直ぐに友達と一緒に幼稚園の庭に出て毎日、観ていた!と云ってた。うちは神戸の元町駅が最寄り駅なので神戸駅から東へひと駅、その時の機関車はC53.43号機。まぁ…その時代やから…紀元2600年(昭和15年)の横浜沖の大観艦式後の聯合艦隊が呉に戻る途中で神戸に立ち寄った時には大改装後の戦艦伊勢に乗せてもらったり戦艦長門も観た!と云ってたし、戦争中は近くのメリケン波止場に行けば川崎造船所で艤装中の空母大鳳を観に行ったり戦争末期には鳴尾の川西航空機の飛行場まで遊びに行けば、零戦のみならず新鋭機紫電改や銀河まで観た!と云ってた!…羨ましい(笑笑)。
戦艦伊勢=航空戦艦、戦艦長門=戦後ビキニでの原爆実験、空母大鳳=重装甲空母として活躍を期待されていたが、潜水艦からの魚雷1発で沈没。
(11:27~)相変わらず、解説動画内のBGM“カノン”ステキ。 涙と胸、そして心にしみる。
最新の情報に触れられてとても喜んでいます
かつて東海道本線で活躍していた超特急『燕』には、『C51型蒸気機関車』が使われていたのは有名ですが、蒸気機関車で長距離走行を可能にするために、炭水車のさらに後ろに『水槽車(ミキ20)』が連結されているのを確かに雑誌で見たことがあります。他にも『C53型』もC62型より乗り心地は抜群とはいえ、燕号の運用こそあったものの、戦時中は酷使され、戦後になると次々と廃車になり、最後の最後で皮肉なエピソードがあった機関車だったのは聞いたことがあります…。そして、当時の燕号もやはり静岡は通過するという計画があったのも現在で言う東海道新幹線の『のぞみ』に引き継がれているという事ですね。
静岡飛ばしは特急こだまでも行われていますが、こちらも後に静岡県内停車になりましたね。
日本の高速運転技術は、燕 富士 桜で基礎が磨かれたと言って良いですね
超特急の運行は保線作業員達の職人気質のおかげでもあるでしょうね。軌間やレール規格こそ違いますが、東海道本線は当時から後の新幹線並みの精度で保線されていたといいます。しかも全てがビーター挽きという人力作業。箸は二本だ線路も二本、食っていければそれでいい…なんて演歌がありましたね。
悪くいえば保守整備班の自己犠牲とも言われていましたけどね・・
その東海道本線をもってしても、電気機関車+軽量客車による高速運転を実現するには、実現不可能な位の莫大な費用を掛けて軌道の強化を図らないと叶わなかった。それが151系、そして東海道新幹線の実現に繋がっていった。
近鉄のアーバンライナーも中川短絡線走行中に乗務員交代してたな〜。どちらも停車して交代するロスが惜しい位急いでいたんだなぁ。
名阪特急アーバンライナーは、今は津駅で乗務員交代しています
運転士交代の時、お客に余計な不安を与えない様にカーテンを閉めていましたね。
大変興味深く納得させられる内容でした。楽しく拝見させていただきました。ありがとうございます。中央線で言えば、新宿以降の最初の給炭は立川駅。その後、山間部を通るので念のため八王子でも給水給炭していたそうです。今でも裏高尾の中央本線には当時の排気施設跡が残っています。蒸気機関車って航続距離が思ったより短かったのですね。
速達列車の停車駅に「国府津」の名前が出てくるのが驚きです。当時の国府津駅が主要な駅だったのが伺えます。
補助機関車の連結の為に停車したのであって主要な駅ではなかったでしょ。
改めて思うとこれをぶち抜いたP-6もすごい
大山崎付近に来た燕に対してスピード競争を挑んでいた新京阪は、後に阪和電鉄という151系誕生まで速度記録を保持した超特急を運行した鉄道の誕生に関与していますから(新京阪デイ100の狭軌版が阪和モヨ/モタ)ある意味この時のデータをフィードバックしたのかと。
これが本当の「名列車」かもしれない🤔
迷要素も目立ちますけどね・・
明治の初めに欧州標準軌を採用していたなら楽々できたかもしれませんね…。ただ地方の鉄道網は幹線以外なかったかもしれないですね。
標準軌への改軌が成功していたら新幹線が今の形にならなかったのは確か。海外の高速鉄道同様、高速線は郊外限定で所要時間が今より増えるのは確実。車体の大型化を行わなければ今のミニ新幹線が新幹線として走っていそう。
新橋~横浜の設計当時、明治政府の財源不足と山岳が多く平野が狭く少ない日本国土の実情に配慮して、外国人技師エドモンド=モレルの助言で、狭軌が採用されました
ちなみにEF54は各駅停車用の機関車で、燕を牽引したのはEF53・EF55です。
やっぱりそうですよね・・ご指摘ありがとうございます。
実はEF54は国産初の本線用大型機関車EF52の8号機・9号機でEF52では高速運転を要求される急行・特急牽引に無理があるので歯車比を高速運転対応にされて、この車両の運用の結果旅客用量産型電気機関車としてEF53が登場、EF54は歯車比が高速運転向きだったということでEF 52の8号機9号機を改番したもの。
EF54の燕牽引もあったそうですよ。西尾克三郎氏の記録写真にあるそうです。ネット情報なので信憑性はわかりませんが…参考までに。
「アクロバットな補助機関車連結·開放」は「ポケットサイズの鉄道本」で写真はなかったですが、小学生か中学校の頃、文章で見た事あります。「すごい事をするなぁ!」と思いました。
特急燕、戦前のJTB時刻表では、下り東京午前9時発→神戸午後5時37分着、登り神戸午後12時30分初→東京午後9時着、停車駅は下りは大垣停車、登りは大垣ノンストップでした。
近鉄「うちも走行中に乗務員交代してたけど怒られました」
その「つばめ」も今や新幹線ですからね。まあJR九州がつばめ号を復活させるときには色々あったようですが。
JRになってすぐに当時の「鹿児島有明」の番号が熊本行きと切離されたので名称分割は予定だったんでしょうね。
やっぱりC51はかっこいい。
c57と並んで一番好きな蒸気機関車のひとつです!
しかも写真は御召機だから余計に綺麗
18900形時代が一番カッコいい‼︎仕様も様々、ダブルテンダーでお召仕様の頃の239も素晴らしい‼︎
うぽつです。
おつありです!
今のSLやまぐち号の35系のグリーン車は特急燕号の一等車を復刻した車内らしいです!
4:50 EF54、C54、DD54…うっ頭が···
(多分EF53の間違いだったかもです)
EF54は改造車のせいか呪いが発動していないはず。ED54は思いっ切り発動。
時は1930年で東京ー大阪の航空輸送が始まってすぐの頃、輸送力は微小でしたが、速度に対する意識があったかもしれませんね。空中給油ならぬ走行中給水があり得たかもしれませんね。複線区間でポンプ搭載列車を並走させたりして。
走行中の運転士交代は以前近鉄の名阪特急でもやってましたね名古屋行きの場合、中川連絡線を走行中に車掌(名古屋線の運転士)が運転室へやって来て交代し、大阪線の運転士はそのまま名古屋線の車掌になるというパターンだったそうです
「こだま」でも安倍川鉄橋で走行中に交代してましたっけ?
近鉄もこだまもなかなかアクロバティックなことをしてましたね
安倍川でしたか。富士川と間違えました。乞う許し。
地元愛知の名鉄の前身の愛電の大ドス3300系、阪急京都線の前身の新京阪のモ100は並行する東海道本線のこの列車に負けじと快走していた。しかし、151系「こだま」が東京〜大阪間を6時間50分でデビューし負けた。
特急は今でこそ当たり前の存在だけど…新幹線開業前は「特別急行」と呼ばれ庶民には高嶺の花だったなんせ、急行料金は運賃の二倍、特急料金は急行料金の二倍だったそうだから
まさしく「特別」な存在ですね!
クロ151【パーラーカー】は二等制の時でも運賃と特急料金は共に二等の2倍以上でさらに特別座席料金が 必要でした。(・ε・` )スゲー!
昔の一等車(三等まであった時代は二等車)は、運賃自体が二等の2倍、急行/特急料金も2倍だったそうですからとんでもなく高価だったんですね。今のグリーン車は普通車と運賃も特急料金も同じで、ただグリーン料金が追加されるだけなので、昔の一等車と比べたら比較にならないくらい手軽に乗れる。
@@クモハ165 さながらグランのルーツですかね?
@@SyoShinozaki 旧一等がグランとして復活するとは思ってませんでした。
自分が生まれる前の話、新幹線が新大阪まで開業したのち、151系から581系にバトンタッチした際、一時、名古屋~熊本という運転区間もあったようだ。さらに夜間は「金星」の運用になり、こちらは昭和50年代半ばまで続いた。
1964~65年=151、65~68年=481、68~72年=583、72~75年=485&583
流線型の蒸気機関車実に懐かしいですなw
戦艦大和も絶対に動ける信頼性の優先と同じで信頼と熟練からC51が使われていたのに保存機が軒並み少ないのは残念ですね。Nゲージで機関車だけでも〜とキットを見たら機関車とミキでかなりの値段でした…走行しながら機関車を並走させて給水って、できないのって思ってたら、水を撒いて給水はアクロバティックすぎるw
私は線路沿いにドブを掘ってそこへ缶水用の水を流してホースで炭水車に汲み上げると言う説は聞いたことがあります。
@@sasakkey2635 地下鉄でしたか?パンタグラフを使わずに、線路の横に電気のレールを敷いて台車の横から集電するタイプの電車の原形みたいですね!
@@ナキ-v6t 第三軌条方式は今世紀の初めには横軽間で採用されていますのでそこからアイデアを拝借したのかもしれませんね。
燕に連結された水運車は当時あくまでも「C51の炭水車」扱い、というのもこれを炭水車という独立した車両にしてしまうと混合列車扱いにされてしまうため。因みに静岡に停車するようになった理由が「政府の高官やそれこそ閣僚が元老西園寺公望を訪問するのに適当な時間に静岡に到着できる列車がない」という今では想像できないようなぶっ飛んだ理由から。この結果水運車が外され三等車1両の増結が可能になった。
補機の切り離しはブレーキ管ってどうしてたんですかね?セノハチみたいな密着式自動連結器にブレーキ管がくっついてたとかではなさそうですし
もとから繋げなかったそうです。これは21世紀初めまで走行開放をしていた瀬野八でも同様です。登り勾配ですからブレーキを掛けるのは非常時にほぼ限定されていたせいですね。ただ平成に入る頃からは流石に問題になって色々と試行錯誤したそうですけど、結局いい手段が見つからず走行開放廃止になったとか。
@@N--T 走行解放はJRになってからもしばらく行われていました。ブレーキ管は密着自動連結器で通気させていました。10000系(コキ・レサ)貨車が使われていましたが、これらの廃止後はコキ104に10000番台を作って運用されていました。補機のEF67も0番台は東京方のみ密着自動連結器を装備していて、走行解放列車の補機は0番台限定でした。運転席左脇に解放シリンダの操作ハンドルがあって、これを扱うと自連横のシリンダが持ち上がって解放てこを持ち上げる構造になってました。廃止になったのは、機関車や線路の性能が向上して、そこまでしなくても到達時間の短縮ができるようになったからです。
@@N--T あー、やっぱり戦前だとブレーキ管は繋げてなかったんですねセノハチは高速貨物と牽引機のようなブレーキ管を補機にも付けてましたよ?ブレーキ管を繋げてなかったのはD52の時までだったかと。
@@tt225-suzuki7 セノハチと言えば1200tを押し上げるEF59重連の後釜予定だったEF61-100•200ですが、重連で力行中に本務機が非常制動をかけると押し上げ過剰で中折れ脱線になるから改造予定だったEF61-100も中止し、1000t以下で単機運用になったと聞いたことあります。やっぱり押し上げや走行開放は良いとしても非常制動時が問題なんですね…。セノハチのEF59重連やEF67-0は押し上げ過剰ではないみたいですし、戦前の箱根越え補機も性能的には本務機とどっこいどころかむしろ低いなんてこともあるでしょうし、ブレーキ管が繋がってなくとも非常制動も問題なかったんですかね。
ありがとうございました。故 宮脇俊三さんがご覧になったら、きっととても喜ばれただろうな。。。「時刻表昭和史」の内容を思い出しながら拝見いたしました。
0:50阪急“春日野道”駅だ。
ほん☆「いっそ客扱いをしないというのは。」さらにスピードアップできるぞう!
こんな変態運行をしていた特別急行「燕」號をNゲージで(多分)完全再現した「キングスホビー(キングボンビーではないw)」というメーカーがありまして当時学生の身分でありながらすごく欲しかった。けど7両セットがキットで5万弱、完成品だと12万越orz自分は此処から水槽車とか「燕」號を知った変態です( ̄▽ ̄;)
Nゲージで再現するのはかなり凄いですね・・
キングスホビー閉店後はアルモデルが製品販売を引き継いだけれど、「燕」號再販は有るかな。再販されても資金力的にOUT!だがw。
なんなら今はリニア開業を目指すくらいですから、東京〜大阪間の時間短縮は永遠の課題ですね!
流石 つばめ号は伝説がありますね❗新幹線の愛称も、つばめ号があるなら、はと 富士号も誕生して欲しいです。
スピード感の問題ですかね
富士と言う特急の伝統と格式から言っておいそれと富士を名乗れる様な格式高い列車が出てくるかどうか?リニア中央新幹線で富士が復活しなければもう永久欠番になりそうです。
0:59 大阪・神戸間だけ切り取ると富士と櫻が同区間を20分弱、燕が40分で走行していたみたいだけど、流石に最後の方は流してたのかな?
というかC53は高性能だったが、その心臓となる弁装置はアメリカ産のC52の劣化コピーだったのも一因だったとか。
燕でも「名古屋飛ばし」が計画あったのか
流石に機関車交代と水補給、乗務員交代の都合で実現不可能だったかもしれませんね・・
利用客に走行中の無停車で乗車降車させる案も、慣れないと危険だからという理由で却下された。 ウソデス
子供の頃、市立図書館に鉄道を紹介する戦前の本が置いて有って、その中にアメリカの事例として、特急列車に電車を併走させて乗客を乗り降りさせると言うのが有りました(同時に、イギリスの事例としてスリップダウンのことも記載)。ただ、こんな面白い話なのに、検索しても動画どころか記事も引っかからないので、これは誤り(翻訳する時に事実を誤認したか誤訳した?)ではなかろうかと。英語の分かる人だと何か見つけられるかも知れませんが。実際に行おうとすると、1.実施駅付近に急カーブと障害物が有ると実施出来ない。2.電車にボーディングブリッジ的構造の追加が必要。等の問題が有りそうです。映画”新幹線大爆破”を見たことの有る人は、併走する新幹線から荷物を渡すシーンを思い出せば、言わんとする事は分かるかな、
新京阪線(現在の阪急京都線)の特急電車とバトルして負けたという話は有名ですね。まぁ、あれは新京阪線側が直線区間で有利だったこともありますけど。
京急「きっしょ氏ね(暴言)」阪急「お前ホンマに有料なん?ww」燕「えぇ…(困惑)」
蒸気機関車から電車に移行するきっかけになったとかならなかったとか
@@都リチウム そんだけショック大きいんか…(困惑)
8:28なんだこの流線型の蒸気機関車(C51161?)は
61号機は空気抵抗低減試験目的で半流線形解像していたそうです。すぐに元に戻されましたが・・
あれは、流線形改造された『C53 43』です。当時の世界的流行であった流線形に乗って改造したもので、その運用実績を受けて、『C55 20~45』が流線形で製作されました。流行が去ると、整備に難があった車両は『通常形』になりました。
@@オス犬の鉄道ちゃんねる 8:28 の機関車はC51 61で合っているかと13:33 の機関車はC53 43ですね
何処と無くアメリカのブラックビートルを連想させる。
流線形SLは靴のオバケと言われ、運転台は熱が籠って暑く、機関手からは嫌われてたとか。
リアルなバック・トゥ・ザ・フューチャーパートⅢのクライマックスシーンみたいになる危険性のある事していたんだなぁ
伝統の豪華特急つばめ初代 東京~大阪二代目 新大阪~博多(名古屋~熊本もあった)三代目 門司港、博多~西鹿児島客車時代はマイテの展望車付き電車転向後は151系(181系)パーラーカー九州転向後は787系の走るロボコップでビュッフェ付き豪華特急のプライドを保ち、九州新幹線になった
まさに大和魂で運行していたのですね。
鉄道省の技術は世界一イイイ!
「国鉄一家」と云う言い方を思い出した。(良い意味で)
「つばめ」あるいは「燕」という名前の持つ伝統や格式からすると、九州新幹線各駅停車タイプの列車名に使われていることに強い違和感を覚えます。「つばめ」はもっと広い大空で飛ばしてやりたいですね。
そ言えば某鉄が平成でも走行中乗務員交代やってましたね
しかし、それより速いC11の通勤快速w
当時の六大都市東京 横浜 名古屋 京都 大阪 神戸 更に準じるのが後々北九州市になる地区
ふむふむ、なかなか興味深い。
こっそり変態特急と言っちゃってるよwww
海の向こうの某会社が走行中に水を補給していたナァ…
鉄道ファン1989~1990年の連載記事の「名古屋を中心とする蒸機物語」に詳しく記述されています❗機関士だけなく検修の職員の事も記述されています❗
「流線型カバー付きのC53」ですね(「こち亀」でも似た機関車を見ました。)。
50kg(100lb)レールの特別甲線か更に自動連結器とか
横浜、名古屋駅間ノンストップって かつての「のぞみ301号」?(汗)
のぞみ301号は名古屋京都通過です。新横浜名古屋ノンストップは今ののぞみ号全部です
プロ野球のヤクルトスワローズだって元々は国鉄スワローズだったし
でも、『阪急P-6』には負けたしwww
「阪急」ではなく「京阪デイ100」では?
阪急(新京阪)と国鉄(鉄道省?)の競争があった山崎付近では。国鉄がS字カーブで速度制限がかかっていたのに対し、阪急のほうはほぼ直線だから阪急が勝つことができたのでしょう。
流石電車は速かった
@@都リチウム 『京都~大阪』間は、昔も今も『鉄道激戦地』ですから。乗客としては、『安全第一』で走ってくれたらいいわけですよ。
阪急では東京に来れない、
3:50後の東海道新幹線 のぞみ301号である
走行中の連結切り離しってゲッターロボか何か?
ウテシ「俺たちは目ぇつむっていても連結できるんだぜ!」ですかw
新幹線の、名古屋ー東京ノンストップのひかり号は滅茶滅茶速い。時代と速度差に隔世の感。
マイテ49には一回乗ってみてぇ
今の特急は急行に格下げしようよ。
つばめのスピード・アップ ?確か最後尾の展望車は "マイテ39" ?車体重量の "マ" は "カ" よりも「重い」イは「一等車」で、テは「展望車」この車両は、米軍兵や上流階級用だったと、聞いて居ます。( これは金持ち等の観光用 "優等列車" と、記憶して居ます )
マは42.5t以上47.5t未満、カは47.5t以上とかのような〜ようなですけどな。
@@tydeentetuota5514 さん、お返事・有難う御座いましす。マ と カ の重さが "逆" でした。失礼しました。
JR九州に特急「つばめ」ができた(はじめは787系や783系)とき、東京⇔九州間などの特急列車ならとにもかくにも、その名前を九州島内のみの列車が、単独で独占使用するのは少し変だ!なんて思った。「つばめ」はもともと日本を代表し、日本の象徴的な名門特急の名前だったので、とても違和感があった。満洲に高速列車を走らせる夢(弾丸列車構想)は日本の敗戦によってついえたが、日本本土(内地)の太平洋ベルト地帯に高速列車(弾丸列車)を走らせる夢は残った。それは「新幹線」で実現することになる。新幹線が別線の標準軌で建設されることになる前には、在来線で高速列車を走らせる計画であった。この列車の嚆矢(こうし:物事の初め)となったのが、「つばめ(燕)」などであるのだが、ある意味日本初の特急列車と言ってもいい。当時の日本は、戦後需要の増大とも相まり、日に日に進歩発展し続ける高度経済成長の幕開けの時代でもあった。明治時代に「特別急行」の列車種別ができ、昭和初期に愛称がつき始めた日本初の特別急行列車である、富士(ふじ)、櫻(さくら)、燕(つばめ)、鷗(かもめ) 、などは、戦後も復活し「つばめ」、「へいわ」、「はと」と変遷していった。これらの名前は、安易には使えない気がする。
223,225系「新快速」が鼻ほじって聞いてますよ。321系普通と221、223系快速が、「あの赤い電車速いの?」って聞いてますよ。多分嫌味と思いますよ。
それでも P-6は 速かった
新京阪電車は速い!
今の豊橋まで普通+名鉄+近鉄特急と同じか
戦後マックアーサーが来日後に走り始めた、進駐軍専用列車を教えて。
ヤンキーエキスプレス?だったっけ?
蒸気汽車で8時間半すごくね
戦前だけど今の高速バスよりも速い
50kgレールに変更した時に標準軌にすればよかったのに。
島安次郎さんが改軌論者でC51を「これが狭軌の蒸気機関車の限界」という意味で設計したところ、議員連中が「こんな凄い機関車が出来たのだから標準軌にする必要は無いよね」と言う結論を出したため国鉄はずーーーーっと狭軌のままです。改軌論に敗れた島安次郎さんは国鉄を辞職して南満州鉄道に再就職しました。
@@sasakkey2635 歴史に、もしもはご法度だけど、改軌してたら、今の新幹線も生まれてなかったのでは?と思ってしまった。満鉄のあじあ号はすごいですよね。
@@kurihara521 たとえ標準軌化したとしても東海道、山陽本線の輸送力は限界に来るので弾丸列車構想は出てくるものと思われます。新幹線も弾丸列車も東海道本線の優等列車を新幹線に置き換えて東海道本線は普通列車と貨物しか走らせないと言う様になるでしょう。確か新幹線は東海道本線の側線と言う扱いだったと何かで読んだ覚えがあるのですがそれが何と言う本なのか覚えておりません。
@@sasakkey2635 弾丸列車計画があったから、新幹線は作ったでしょうね。今のような新幹線じゃなかったと思うってだけです。寝台新幹線、貨物新幹線計画もあったようなので、優等列車だけではないような気がします。
@@kurihara521 そうですね。貨物の新幹線の計画もありました。
JR九州石井初代社長が「どこにも負けない787つばめを作ったよ」と笑顔で回想されてました
12:36 超特急と比べて最高速度が1割も2割も高い列車に定期券のみで乗れるなんて、贅沢な時代だ
この強い想いを実現してた人たち、まさに憧れの職業だったろうし
本人たちもプライドを持って仕事をされてたんだろうなあ
当時日本で交通機関の花形といえば鉄道でしたから優秀な人がたくさん集まったそうです!
彼らと十河さんに現在の東海道新幹線というものを見せてあげたい
絶対感動するだろうなあ...(のぞみの停車駅に至っては最速時の燕とほほ同じだし....
ほんとほんと!私が往復切符台を払うから、ぜひ乗せて差し上げたい。あなた方の努力がこうして実を結びましたよって。
特急「燕」の生き証人ことマイテ49-2、現在でも車籍が残ってますね。
SLやまぐち号に連結されてる時に乗ったことがあります。
新型の旧型客車(?)に変わった今でも動かせる状態で残ってるんですね。
現在も残ってるのは驚きですね
今では貴重な走行可能な3軸ボギー車ですね。1号編成が走っていた頃は供奉車の一部に3軸ボギー車がありましたが、久しく走っていませんから。
@@DDwaizen たたたたたたたたたちたたたたたちたたちたちたちちたたたたたたたちたたちたたたたたたたたたたつたたた4
マイテ49 2は当初「はと」と共通の予備車で、レギュラーはよりクラシカルなマイテ39 1·21でした。
青大将色になったあたりから、マイテ39の老朽化が目立ってきたので、運用機会が増えました。
ちなみにマイテ39/49とも、元々は太平洋戦争前の特急富士用の展望車でした。
昔、宮脇俊三御大の子供向け絵本で読みましたが凄まじいアクロバットでしたね。
現在ならほとんど採用不可な施策ばかりです。
ある意味究極のスピードアップですね
3気筒のC53牽引時代は、機関車のボイラー下に人が潜り込んで、走行中に中央クランク部の給油作業に当たっていたとか。
サンライズ出雲瀬戸が6時間半程度で大阪ー東京を結んでいることを考えると、やっぱり電車特急は速いですね、、
その6時間半も1960年代に特急こだまで実現しましたね・・
因みに現在、東京〜大阪の在来線最速はJR貨物のスーパーレールカーゴで、東京貨物ターミナル〜安治川口を6時間15分程度だそうです。ただ、これもまだ余裕があって運転最高速度の130km/hを出せるのはJR西日本区間だけだそうで、ほぼ全区間で最高速度を出せれば6時間を切れるのでは?
重箱の隅を突く様で申し訳ないですが、ミキ20という形式が付いたのは燕での運用が終了してからだそうです。それまでは、C51の水槽車という扱いです。
燕運用中の水槽車は機関車の一部と言うことで、動画に登場した水槽者の写真の左側にナンバープレートが写っているね。
そういう「様々な努力」という基礎の上に今があると考えると、いっそう感慨深いです。
鉄道の歴史は深い・・
最高速度が時速100㎞なのは機関車の性能や狭軌鉄道の制限ではなく、非常制動をかけてから600m以内に停車しなくてはいけないという規定によるものです
そのため、蒸気機関車が時速100㎞で電気機関車が時速95㎞に制限されていました
実際にC51形は軌道的に劣る37㎏/mの軌条で時速120㎞で走ったというネタがありますし、運転士の自己申告であればC50形が時速130㎞で走り、逆機のC11形が時速140㎞で走ったというのがあります
(果たしてそのスピードは本当なのでしょうか・・?)
まさか大井川鐵道のトーマスもその気になれば…?
動輪の回転数を300回転で100km近く出すように設計したわけですが諸外国では普通にそれを上回る回転数で走っていたので100km以上出したというのもおかしい話ではありませんね。
@@都リチウム
信頼して良いものだと思います。
世界にはマラードをはるかに上回る速度で走ったという非公式記録もあります。
これでも「もっと早く」というニーズは止まらず、弾丸列車計画→新幹線につながったんですよね。
「弾丸列車」の名は海外の方が残っているらしく、新幹線を指す語として“Shinkansen”と“Bullet Train”がどちらも使われているようです。
ある意味新幹線の先駆けと言えるかもしれません
@@都リチウム
東海道は弾丸で作りかけていた箇所のお陰で早期開通が出来ましたが山陽ではその弾丸の作りかけが反対運動で確保出来ずに予定が狂ったそうな。
@@maruhiroya417 新尾道駅あたりはそのあおりですよね。本来は山陽本線に沿う形だったのですが…と
@@kakeruyamato4364
西日本はPヨクが強い事が図らずも先日のあのテロ事件ではっきりとわかりました。
陸上の400mリレーのバトンパスやF1の2.5秒のタイヤ交換に匹敵する、
時間短縮への卓越した技術の採用は目を見張る。
品川駅前にあるつばめグリルは燕がなくなるのを惜しんだ人たちが名付けたらしいですね。
今の新幹線みずほとつばめは序列が逆のほうがいいな。
最速達:つばめ
準速達:さくら
各停:みずほ
てな感じで。
「こだま」と昔の「とき」もそうですが、在来線の名門列車が下位種別に使われる例が多いですね
JR九州は
特急「つばめ」に
JR各社から許可を貰ったとか‼️
それだけ伝説の列車名
今では九州新幹線に使われてるけど
新大阪~鹿児島中央の
速達列車は「みずほ」
準速達は 「さくら」
「つばめ」は九州新幹線のローカル列車に
なってしまった
普通なら
「つばめ」が最速達
「さくら」が準速達
「みずほ」がローカル
でも良いのでは?
伝統と格式ならそうなりますね。富士は恐らくリニアで復活だろうね。
あの「ひかり」だってかつては準急の列車名だったんだから名前が巡るのはそれはそれで楽しいですね
リニアに格式とやらがあれば富士も可であろうがもっと違う愛称になるだろうな。
6:14 「走行中に機関車切り離し」
これについての補足私見です。
宮脇俊三氏の『増補版 時刻表昭和史』(角川文庫)にはこうあります。
「約四〇分かかって最高地点の御殿場まで登りつめると補機を切離す。この作業は走りながらおこなわれた。御殿場駅の構内にかかると補機は連結器を解放し、制動(ブレーキ)をかける。これで切離し完了である。走行中の補機切離しはさしたる離れ業ではなかったらしく、「燕」のほか「富士」も「櫻」も、さらに普通急行もおこなっていた」(26ページ―28ページ)
上記の文を読む限り、走行中の補機切離しは「離れ業」ではないように感じます。
この動画の通り、初代「燕」が離れ業を連発していたのは事実です。いちばんの離れ業は、何といっても走行中の機関士・助士の交代ですね。
実際、某紅茶の国はノンストップ運転と途中駅停車を両立するために走行中に客車を切り離したこともあったようですし、2002年まではセノハチで実施されていたようですね。
@@tetsuokun5026 さん
セノハチの補足、ありがとうございます。Wikipediaで見た記憶はあるのですが、出典を明示できず、あえて言及しませんでした。
ちなみに、この走行中切り離しの作業は、最初はフロントデッキに作業員を乗せて手動で行っていたそうです
その後は走行中に車外に人が出てはいけないと規定されたため、手動による走行中解放や走行中の乗務員交代などが出来なくなりました
そのため、その後の走行中解放は連結器に空気シリンダーをつけて運転席の操作で連結器を解放するようになっているので、特に離れ業ではなくなっています
まったくの余談ながら、群馬県の碓氷峠鉄道文化むらに保存されているEF59形には自動解放装置付きの連結器が装備されているので、間近で実物を見ることができます
@@電光刑事-u4c さん
補足ありがとうございます。走行中に人が車外にでれば、そりゃあ「離れ業」ですよね。
@@meitoku5581 ちょうどそのEF59は瀬野八補機として活躍していた車両です
水槽車連結採用前に検討されていた給水方式が、当時アメリカの東部ペンシルベニア鉄道が採用していた、ウォータースクープ方式も検討された。
ウォータースクープ方式はレール間にピットを何kmに渡り設けてそれに水を満たし、炭水車の底に伸縮式の吸水口を設置。ピット区間に入ると吸水口を伸ばしピットの水を走りながら炭水車に汲み上げる方式。ペンシルベニア鉄道では、蒸気を使って吸水口の操作を行っていた。当時の映像では、ペンシルベニア鉄道の蒸気が減速せずに水飛沫を上げながら給水しているのが見受けられる。
イギリスのフライング・スコッツマンでも同じ方法で給水していましたねぇ。無補給で700キロ超は無理でしょうから。
子供の頃 特急つばめ号に乗車していました。通過する駅でも駅長さんがホームで待ち 運転手さんと敬礼を交わしていたそうです。
国鉄にとって燕はどんな特急よりも特別扱い。超特急と付くだけあって速さへの執念は凄いの一言に尽きるね。
人気を博したと言っても当時の特急は気軽に乗れる列車じゃなかったし一等なんて絶対に乗れない。
格で言うと今の特急は、燕の足許にも及ばないよ。
格式の高さで言えば「キャデラック」みたいな御大ですかね?
国鉄バス~JRバスのマークもツバメだし、現ヤクルトの球団は国鉄スワローズとして誕生。
燕は、国鉄そのもののシンボルだった。
特急もここ100年で大衆化が進みましたね
@@都リチウム
特に特急の大衆化は民営化されてから一気に進んだね。
昭和30年代前半では、総理大臣でさえ飛行機をなかなか使えなかったようだ。テレビのニュースで、総理大臣が大阪へ行ったり、東京へ戻ったりの時は、EF58の牽くつばめ号がホ-ムに滑り込んで来る場面が映されるのが恒だった。あの場面を集めたら、EF58の図鑑が出来る程だろう。
他にも
①遅れそうなものなら前を走る全ての列車を退避させてまで燕の定時走行を守った
②東京、大阪でデルタ線を使って上りでも常に1号車が先頭、展望車が最後尾になるようにしていたなどがありますよね
このデルタ線転換は、「富士」「櫻」などでも実施され、戦後も客車特急では普通に行われていたそうです。博多駅折返しだと香椎線と今はなき勝田線を使って方向転換していたそうです。そういう設備がないところですと一両ずつ転車台に載せたとか。
@@N--T 博多特急は方向転換が面倒過ぎて、三等車をスハ44系からナハ10系に交換したんだとか。
下関は一両ずつ転車台に載せていたはずですが、後年の関門トンネル建設を考えると将来の転用を見越した引き上げ線とデルタ線を作れなかったものかと思いますね。
@@北の独居
博多での方向転換は戻ってくるまで2時間以上掛かったそうなので、やめてからは号車札を取り換えるだけにしたそうですね。
@@N--T 清掃やカバーの交換は方向転換中にやるにしても、2時間以上も時間を取られるなら、そりゃそうなりますね。
これこそ本当の”特別”な急行列車ですね
私の知り合いの鉄道省のお役人のお嬢さん(と言っても最近90ン才でお亡くなりにました)が言うには「特急富士の1等車には一般庶民はいくら運賃が払えると言っても絶対切符を売ってもらえなかった」と言っていました。彼女は戦前からの筋金入りの「鉄子」さんで、どうしても特急富士の1等車に乗りたくて乗りたくて、鉄道省官僚のお父様におねだりしたそうなのですが、お父様からそうやって言われて断られたので諦めたと言っていました。
燕は昭和29年の記録映画「つばめを動かす人たち」でその栄光の一部を見ることができました。C53は中央シリンダーのビッグエンドに走行中給油という極めて危険な保守を行っていたとか…。
当時の鉄道省もかなりアクロバティックですよね・・
@@都リチウム さんへ、国鉄破綻シリーズ、大変面白かったですよ。C53への走行中給油のエピソードは「国鉄時代」に掲載されており、非公式な保守作業だったようです(当然ですが)。
「つばめを動かす人たち」はこのサイトで見られるけれど、最期にC62の乗務員が花束を貰う理由が謎。これが2年後だと東海道本線全線電化でC62の牽引が終わるので花束は有り得るのだが。
そして、「つばめを動かす人たち」の音楽を担当した伊福部昭氏は「つばめを動かす人たち」と同年に「ゴジラ」の音楽を担当したせいか、「つばめを動かす人たち」には「ゴジラ」風味を感じさせる場面が有る。
なお、伊福部昭氏は前年(昭和28年)の記録映画「生れかわる客車 (木造客車から鋼体客車への改造が題材?)」の音楽も担当している。
@@北の独居 交通科学館でゴジラっぽい音楽を聞いた記憶があるわ
@@TheBikkuri 「つばめを動かす人たち」が上映されていたのかな?
燕はのぞみ号、富士と櫻はひかり号みたいな特急だったんだなぁ
そら速い訳だ
栄光の国鉄型特急の代名詞の超特急燕の真実を知る良い機会になりました。
有難うございました。
東海道で産声を上げた超特急燕も東海道/山陽新幹線の登場に伴い、西国に追いやられてしまう羽目になりましたが、
九州で復活したときは、嬉しかったです。
山陽路では電ハネ583系も営業運転で採用されていましたね。
まぁ、山陽以降のつばめはスピードの象徴というより「南に行く渡り鳥」という意味合いで名乗っていた感じでしたね、交直流車になった時点で自由席が出来たりして一気に大衆化が進みました。
JR九州にとって(というか国鉄九州)は、つばめは九州動力近代化の象徴だからね
『つばめ』を、旧型のC51で高速運転を実現する為に、
性能の底上げの為に高カロリーの粉炭をピッチで固めた
特急列車専用の練炭が開発されたとか。
生の石炭と比べると火付きが悪い欠点もあっても、
黒煙とシンダの低減の効果もあってサービス向上に
繋がったんですって。
停車駅でも151系こだまも登場時は横浜~名古屋無停車だったような気がします。その後静岡も停車駅に加わったみたいです。今の時代の昼行長時間無停車特急列車は、サンダーバードぐらい。
その当時も走行中に運転手交代をしてたと聞いた。富士川鉄橋の上なら危険要素も少ないし。その後、静岡駅全停車にして運転手が交代したらしい。
安倍川だったと思います
走行中の交代は最近まで近鉄名阪特急の雲出川でも行われてましたねえ
燕の水確保のために考えられた有名な方法に「ウォーター・スクープ」もあるな
線路の中央に水槽を設けて機関車から下ろしたパイプで水を掬い上げる、というイギリスやアメリカで採用された方法が日本でも検討されていたらしい
はつかり、はと、とき、いずも・・・
新幹線もいいけど長距離特急、残して欲しかったなぁ
短距離需要、絶対あると思うんだけど
はやぶさやあけぼの、急行八甲田乗った記憶はいまでも宝物です
特急「あかぎ」も縮小傾向の現在は短距離需要も新幹線で間に合ってしまう時代・・
まあ「いずも」は
サンライズ出雲として
サンライズ瀬戸と共に
最後の夜行列車ですね‼️
東海道新幹線開業時は、国鉄も意識して在来線優等列車を残したものの、出張族の多い当時は会社の経費で落とせる新幹線に客が集中したので、国鉄が方針を改めたと言う噂が有るよ。そうだとすると”世界最速の通勤電車”は生まれつきと言える。
何故、新幹線には「つばめ」の名前、採用しなかったんだろうな? (プロ野球時代も、国鉄スワローズ(金ヤン,A,の頃)だったのに)
@@Kマサヒロ-w6l
東海道新幹線開業時に既に電車特急「こだま」があり、素直に、その電車特急から取っただけなのでは?いくら「燕」でも、電車特急には負けるだろし。(たしか、電車特急の「こだま」は、片道6時間台だったような)
昭和5年生まれのうちの親父(もちろん鬼籍)が幼稚園の時、お昼に神戸駅発の東京行き特急燕号は流線型の蒸気機関車が牽引しとったので昼食もそこそこに直ぐに友達と一緒に幼稚園の庭に出て毎日、観ていた!と云ってた。うちは神戸の元町駅が最寄り駅なので神戸駅から東へひと駅、その時の機関車はC53.43号機。まぁ…その時代やから…紀元2600年(昭和15年)の横浜沖の大観艦式後の聯合艦隊が呉に戻る途中で神戸に立ち寄った時には大改装後の戦艦伊勢に乗せてもらったり戦艦長門も観た!と云ってたし、戦争中は近くのメリケン波止場に行けば川崎造船所で艤装中の空母大鳳を観に行ったり戦争末期には鳴尾の川西航空機の飛行場まで遊びに行けば、零戦のみならず新鋭機紫電改や銀河まで観た!と云ってた!…羨ましい(笑笑)。
戦艦伊勢=航空戦艦、戦艦長門=戦後ビキニでの原爆実験、空母大鳳=重装甲空母として活躍を期待されていたが、潜水艦からの魚雷1発で沈没。
(11:27~)相変わらず、解説動画内のBGM“カノン”ステキ。 涙と胸、そして心にしみる。
最新の情報に触れられてとても喜んでいます
かつて東海道本線で活躍していた超特急『燕』には、『C51型蒸気機関車』が使われていたのは有名ですが、蒸気機関車で長距離走行を可能にするために、炭水車のさらに後ろに『水槽車(ミキ20)』が連結されているのを確かに雑誌で見たことがあります。他にも『C53型』もC62型より乗り心地は抜群とはいえ、燕号の運用こそあったものの、戦時中は酷使され、戦後になると次々と廃車になり、最後の最後で皮肉なエピソードがあった機関車だったのは聞いたことがあります…。
そして、当時の燕号もやはり静岡は通過するという計画があったのも現在で言う東海道新幹線の『のぞみ』に引き継がれているという事ですね。
静岡飛ばしは特急こだまでも行われていますが、こちらも後に静岡県内停車になりましたね。
日本の高速運転技術は、燕 富士 桜で基礎が磨かれたと言って良いですね
超特急の運行は保線作業員達の職人気質のおかげでもあるでしょうね。軌間やレール規格こそ違いますが、東海道本線は当時から後の新幹線並みの精度で保線されていたといいます。しかも全てがビーター挽きという人力作業。箸は二本だ線路も二本、食っていければそれでいい…なんて演歌がありましたね。
悪くいえば保守整備班の自己犠牲とも言われていましたけどね・・
その東海道本線をもってしても、電気機関車+軽量客車による高速運転を実現するには、
実現不可能な位の莫大な費用を掛けて軌道の強化を図らないと叶わなかった。
それが151系、そして東海道新幹線の実現に繋がっていった。
近鉄のアーバンライナーも中川短絡線走行中に乗務員交代してたな〜。
どちらも停車して交代するロスが惜しい位急いでいたんだなぁ。
名阪特急アーバンライナーは、今は津駅で乗務員交代しています
運転士交代の時、お客に余計な不安を与えない様にカーテンを閉めていましたね。
大変興味深く納得させられる内容でした。楽しく拝見させていただきました。ありがとうございます。
中央線で言えば、新宿以降の最初の給炭は立川駅。その後、山間部を通るので念のため八王子でも給水給炭していたそうです。今でも裏高尾の中央本線には当時の排気施設跡が残っています。蒸気機関車って航続距離が思ったより短かったのですね。
速達列車の停車駅に「国府津」の名前が出てくるのが驚きです。
当時の国府津駅が主要な駅だったのが伺えます。
補助機関車の連結の為に停車したのであって主要な駅ではなかったでしょ。
改めて思うとこれをぶち抜いたP-6もすごい
大山崎付近に来た燕に対してスピード競争を挑んでいた新京阪は、後に阪和電鉄という151系誕生まで速度記録を保持した超特急を運行した鉄道の誕生に関与していますから(新京阪デイ100の狭軌版が阪和モヨ/モタ)ある意味この時のデータをフィードバックしたのかと。
これが本当の「名列車」かもしれない🤔
迷要素も目立ちますけどね・・
明治の初めに欧州標準軌を採用していたなら楽々できたかもしれませんね…。ただ地方の鉄道網は幹線以外なかったかもしれないですね。
標準軌への改軌が成功していたら新幹線が今の形にならなかったのは確か。海外の高速鉄道同様、高速線は郊外限定で所要時間が今より増えるのは確実。車体の大型化を行わなければ今のミニ新幹線が新幹線として走っていそう。
新橋~横浜の設計当時、明治政府の財源不足と山岳が多く平野が狭く少ない日本国土の実情に配慮して、外国人技師エドモンド=モレルの助言で、狭軌が採用されました
ちなみにEF54は各駅停車用の機関車で、燕を牽引したのはEF53・EF55です。
やっぱりそうですよね・・ご指摘ありがとうございます。
実はEF54は国産初の本線用大型機関車EF52の8号機・9号機でEF52では高速運転を要求される急行・特急牽引に無理があるので歯車比を高速運転対応にされて、この車両の運用の結果旅客用量産型電気機関車としてEF53が登場、EF54は歯車比が高速運転向きだったということでEF 52の8号機9号機を改番したもの。
EF54の燕牽引もあったそうですよ。
西尾克三郎氏の記録写真にあるそうです。
ネット情報なので信憑性はわかりませんが…参考までに。
「アクロバットな補助機関車連結·開放」は「ポケットサイズの鉄道本」で写真はなかったですが、小学生か中学校の頃、文章で見た事あります。「すごい事をするなぁ!」と思いました。
特急燕、戦前のJTB時刻表では、下り東京午前9時発→神戸午後5時37分着、登り神戸午後12時30分初→東京午後9時着、停車駅は下りは大垣停車、登りは大垣ノンストップでした。
近鉄「うちも走行中に乗務員交代してたけど怒られました」
その「つばめ」も今や新幹線ですからね。まあJR九州がつばめ号を復活させるときには色々あったようですが。
JRになってすぐに当時の「鹿児島有明」の番号が熊本行きと切離されたので名称分割は予定だったんでしょうね。
やっぱりC51はかっこいい。
c57と並んで一番好きな蒸気機関車のひとつです!
しかも写真は御召機だから余計に綺麗
18900形時代が一番カッコいい‼︎
仕様も様々、ダブルテンダーでお召仕様の頃の239も素晴らしい‼︎
うぽつです。
おつありです!
今のSLやまぐち号の35系のグリーン車は特急燕号の一等車を復刻した車内らしいです!
4:50 EF54、C54、DD54…うっ頭が···
(多分EF53の間違いだったかもです)
EF54は改造車のせいか呪いが発動していないはず。ED54は思いっ切り発動。
時は1930年で東京ー大阪の航空輸送が始まってすぐの頃、輸送力は微小でしたが、速度に対する意識があったかもしれませんね。
空中給油ならぬ走行中給水があり得たかもしれませんね。複線区間でポンプ搭載列車を並走させたりして。
走行中の運転士交代は以前近鉄の名阪特急でもやってましたね
名古屋行きの場合、中川連絡線を走行中に車掌(名古屋線の運転士)が運転室へやって来て交代し、
大阪線の運転士はそのまま名古屋線の車掌になるというパターンだったそうです
「こだま」でも安倍川鉄橋で走行中に交代してましたっけ?
近鉄もこだまもなかなかアクロバティックなことをしてましたね
安倍川でしたか。富士川と間違えました。乞う許し。
地元愛知の名鉄の前身の愛電の大ドス3300系、阪急京都線の前身の新京阪のモ100は並行する東海道本線のこの列車に負けじと快走していた。しかし、151系「こだま」が東京〜大阪間を6時間50分でデビューし負けた。
特急は今でこそ当たり前の存在だけど…新幹線開業前は「特別急行」と呼ばれ庶民には高嶺の花だった
なんせ、急行料金は運賃の二倍、特急料金は急行料金の二倍だったそうだから
まさしく「特別」な存在ですね!
クロ151【パーラーカー】は二等制の時でも運賃と特急料金は共に二等の2倍以上でさらに特別座席料金が 必要でした。
(・ε・` )スゲー!
昔の一等車(三等まであった時代は二等車)は、運賃自体が二等の2倍、急行/特急料金も2倍だったそうですからとんでもなく高価だったんですね。今のグリーン車は普通車と運賃も特急料金も同じで、ただグリーン料金が追加されるだけなので、昔の一等車と比べたら比較にならないくらい手軽に乗れる。
@@クモハ165
さながらグランのルーツですかね?
@@SyoShinozaki
旧一等がグランとして復活するとは思ってませんでした。
自分が生まれる前の話、新幹線が新大阪まで開業したのち、151系から581系にバトンタッチした際、一時、名古屋~熊本という運転区間もあったようだ。さらに夜間は「金星」の運用になり、こちらは昭和50年代半ばまで続いた。
1964~65年=151、65~68年=481、68~72年=583、72~75年=485&583
流線型の蒸気機関車実に懐かしいですなw
戦艦大和も絶対に動ける信頼性の優先と同じで信頼と熟練からC51が使われていたのに保存機が軒並み少ないのは残念ですね。
Nゲージで機関車だけでも〜とキットを見たら機関車とミキでかなりの値段でした…
走行しながら機関車を並走させて給水って、できないのって思ってたら、水を撒いて給水はアクロバティックすぎるw
私は線路沿いにドブを掘ってそこへ缶水用の水を流してホースで炭水車に汲み上げると言う説は聞いたことがあります。
@@sasakkey2635
地下鉄でしたか?
パンタグラフを使わずに、線路の横に電気のレールを敷いて台車の横から集電するタイプの電車の原形みたいですね!
@@ナキ-v6t 第三軌条方式は今世紀の初めには横軽間で採用されていますのでそこからアイデアを拝借したのかもしれませんね。
燕に連結された水運車は当時あくまでも「C51の炭水車」扱い、というのもこれを炭水車という独立した車両にしてしまうと混合列車扱いにされてしまうため。
因みに静岡に停車するようになった理由が「政府の高官やそれこそ閣僚が元老西園寺公望を訪問するのに適当な時間に静岡に到着できる列車がない」という今では想像できないようなぶっ飛んだ理由から。この結果水運車が外され三等車1両の増結が可能になった。
補機の切り離しはブレーキ管ってどうしてたんですかね?
セノハチみたいな密着式自動連結器にブレーキ管がくっついてたとかではなさそうですし
もとから繋げなかったそうです。
これは21世紀初めまで走行開放をしていた瀬野八でも同様です。登り勾配ですからブレーキを掛けるのは非常時にほぼ限定されていたせいですね。
ただ平成に入る頃からは流石に問題になって色々と試行錯誤したそうですけど、結局いい手段が見つからず走行開放廃止になったとか。
@@N--T 走行解放はJRになってからもしばらく行われていました。ブレーキ管は密着自動連結器で通気させていました。10000系(コキ・レサ)貨車が使われていましたが、これらの廃止後はコキ104に10000番台を作って運用されていました。補機のEF67も0番台は東京方のみ密着自動連結器を装備していて、走行解放列車の補機は0番台限定でした。運転席左脇に解放シリンダの操作ハンドルがあって、これを扱うと自連横のシリンダが持ち上がって解放てこを持ち上げる構造になってました。
廃止になったのは、機関車や線路の性能が向上して、そこまでしなくても到達時間の短縮ができるようになったからです。
@@N--T あー、やっぱり戦前だとブレーキ管は繋げてなかったんですね
セノハチは高速貨物と牽引機のようなブレーキ管を補機にも付けてましたよ?
ブレーキ管を繋げてなかったのはD52の時までだったかと。
@@tt225-suzuki7 セノハチと言えば1200tを押し上げるEF59重連の後釜予定だったEF61-100•200ですが、重連で力行中に本務機が非常制動をかけると押し上げ過剰で中折れ脱線になるから改造予定だったEF61-100も中止し、1000t以下で単機運用になったと聞いたことあります。やっぱり押し上げや走行開放は良いとしても非常制動時が問題なんですね…。セノハチのEF59重連やEF67-0は押し上げ過剰ではないみたいですし、戦前の箱根越え補機も性能的には本務機とどっこいどころかむしろ低いなんてこともあるでしょうし、ブレーキ管が繋がってなくとも非常制動も問題なかったんですかね。
ありがとうございました。
故 宮脇俊三さんがご覧になったら、きっととても喜ばれただろうな。。。
「時刻表昭和史」の内容を思い出しながら拝見いたしました。
0:50
阪急“春日野道”駅だ。
ほん☆「いっそ客扱いをしないというのは。」さらにスピードアップできるぞう!
こんな変態運行をしていた特別急行「燕」號をNゲージで(多分)完全再現した
「キングスホビー(キングボンビーではないw)」というメーカーがありまして
当時学生の身分でありながらすごく欲しかった。
けど7両セットがキットで5万弱、完成品だと12万越orz
自分は此処から水槽車とか「燕」號を知った変態です( ̄▽ ̄;)
Nゲージで再現するのはかなり凄いですね・・
キングスホビー閉店後はアルモデルが製品販売を引き継いだけれど、「燕」號再販は有るかな。再販されても資金力的にOUT!だがw。
なんなら今はリニア開業を目指すくらいですから、東京〜大阪間の時間短縮は永遠の課題ですね!
流石 つばめ号は伝説がありますね❗新幹線の愛称も、つばめ号があるなら、はと 富士号も誕生して欲しいです。
スピード感の問題ですかね
富士と言う特急の伝統と格式から言っておいそれと富士を名乗れる様な格式高い列車が出てくるかどうか?リニア中央新幹線で富士が復活しなければもう永久欠番になりそうです。
0:59 大阪・神戸間だけ切り取ると富士と櫻が同区間を20分弱、燕が40分で走行していたみたいだけど、流石に最後の方は流してたのかな?
というかC53は高性能だったが、その心臓となる弁装置はアメリカ産のC52の劣化コピーだったのも一因だったとか。
燕でも「名古屋飛ばし」が計画あったのか
流石に機関車交代と水補給、乗務員交代の都合で実現不可能だったかもしれませんね・・
利用客に走行中の無停車で乗車降車させる案も、慣れないと危険だからという理由で却下された。 ウソデス
子供の頃、市立図書館に鉄道を紹介する戦前の本が置いて有って、その中にアメリカの事例として、特急列車に電車を併走させて乗客を乗り降りさせると言うのが有りました(同時に、イギリスの事例としてスリップダウンのことも記載)。
ただ、こんな面白い話なのに、検索しても動画どころか記事も引っかからないので、これは誤り(翻訳する時に事実を誤認したか誤訳した?)ではなかろうかと。英語の分かる人だと何か見つけられるかも知れませんが。
実際に行おうとすると、
1.実施駅付近に急カーブと障害物が有ると実施出来ない。
2.電車にボーディングブリッジ的構造の追加が必要。
等の問題が有りそうです。映画”新幹線大爆破”を見たことの有る人は、併走する新幹線から荷物を渡すシーンを思い出せば、言わんとする事は分かるかな、
新京阪線(現在の阪急京都線)の特急電車とバトルして負けたという話は有名ですね。
まぁ、あれは新京阪線側が直線区間で有利だったこともありますけど。
京急「きっしょ氏ね(暴言)」
阪急「お前ホンマに有料なん?ww」
燕「えぇ…(困惑)」
蒸気機関車から電車に移行するきっかけになったとかならなかったとか
@@都リチウム
そんだけショック大きいんか…(困惑)
8:28なんだこの流線型の蒸気機関車(C51161?)は
61号機は空気抵抗低減試験目的で半流線形解像していたそうです。すぐに元に戻されましたが・・
あれは、流線形改造された『C53 43』です。当時の世界的流行であった流線形に乗って改造したもので、その運用実績を受けて、『C55 20~45』が流線形で製作されました。流行が去ると、整備に難があった車両は『通常形』になりました。
@@オス犬の鉄道ちゃんねる
8:28 の機関車はC51 61で合っているかと
13:33 の機関車はC53 43ですね
何処と無くアメリカのブラックビートルを連想させる。
流線形SLは靴のオバケと言われ、運転台は熱が籠って暑く、機関手からは嫌われてたとか。
リアルなバック・トゥ・ザ・フューチャーパートⅢのクライマックスシーンみたいになる危険性のある事していたんだなぁ
伝統の豪華特急つばめ
初代 東京~大阪
二代目 新大阪~博多(名古屋~熊本もあった)
三代目 門司港、博多~西鹿児島
客車時代はマイテの展望車付き
電車転向後は151系(181系)パーラーカー
九州転向後は787系の走るロボコップでビュッフェ付き
豪華特急のプライドを保ち、九州新幹線になった
まさに大和魂で運行していたのですね。
鉄道省の技術は世界一イイイ!
「国鉄一家」と云う言い方を思い出した。(良い意味で)
「つばめ」あるいは「燕」という名前の持つ伝統や格式からすると、九州新幹線各駅停車タイプの列車名に使われていることに強い違和感を覚えます。
「つばめ」はもっと広い大空で飛ばしてやりたいですね。
そ言えば
某鉄が平成でも走行中乗務員交代やってましたね
しかし、それより速いC11の通勤快速w
当時の六大都市
東京 横浜 名古屋 京都 大阪 神戸 更に準じるのが後々北九州市になる地区
ふむふむ、なかなか興味深い。
こっそり変態特急と言っちゃってるよwww
海の向こうの某会社が走行中に水を補給していたナァ…
鉄道ファン1989~1990年の連載記事の「名古屋を中心とする蒸機物語」に詳しく記述されています❗機関士だけなく検修の職員の事も記述されています❗
「流線型カバー付きのC53」ですね(「こち亀」でも似た機関車を見ました。)。
50kg(100lb)レールの特別甲線か
更に自動連結器とか
横浜、名古屋駅間ノンストップって かつての「のぞみ301号」?(汗)
のぞみ301号は名古屋京都通過です。
新横浜名古屋ノンストップは今ののぞみ号全部です
プロ野球のヤクルトスワローズだって元々は国鉄スワローズだったし
でも、『阪急P-6』には負けたしwww
「阪急」ではなく「京阪デイ100」では?
阪急(新京阪)と国鉄(鉄道省?)の競争があった山崎付近では。国鉄がS字カーブで速度制限がかかっていたのに対し、阪急のほうはほぼ直線だから阪急が勝つことができたのでしょう。
流石電車は速かった
@@都リチウム 『京都~大阪』間は、昔も今も『鉄道激戦地』ですから。乗客としては、『安全第一』で走ってくれたらいいわけですよ。
阪急では東京に来れない、
3:50
後の東海道新幹線
のぞみ301号である
走行中の連結切り離しってゲッターロボか何か?
ウテシ「俺たちは目ぇつむっていても連結できるんだぜ!」ですかw
新幹線の、名古屋ー東京ノンストップのひかり号は滅茶滅茶速い。時代と速度差に隔世の感。
マイテ49には一回乗ってみてぇ
今の特急は急行に格下げしようよ。
つばめのスピード・アップ ?
確か最後尾の展望車は "マイテ39" ?
車体重量の "マ" は "カ" よりも「重い」
イは「一等車」で、テは「展望車」
この車両は、米軍兵や上流階級用だったと、聞いて居ます。
( これは金持ち等の観光用 "優等列車" と、記憶して居ます )
マは42.5t以上47.5t未満、カは47.5t以上とかのような〜ようなですけどな。
@@tydeentetuota5514 さん、お返事・有難う御座いましす。
マ と カ の重さが "逆" でした。
失礼しました。
JR九州に特急「つばめ」ができた(はじめは787系や783系)とき、東京⇔九州間などの特急列車ならとにもかくにも、その名前を九州島内のみの列車が、単独で独占使用するのは少し変だ!なんて思った。
「つばめ」はもともと日本を代表し、日本の象徴的な名門特急の名前だったので、とても違和感があった。
満洲に高速列車を走らせる夢(弾丸列車構想)は日本の敗戦によってついえたが、日本本土(内地)の太平洋ベルト地帯に高速列車(弾丸列車)を走らせる夢は残った。それは「新幹線」で実現することになる。
新幹線が別線の標準軌で建設されることになる前には、在来線で高速列車を走らせる計画であった。
この列車の嚆矢(こうし:物事の初め)となったのが、「つばめ(燕)」などであるのだが、ある意味日本初の特急列車と言ってもいい。当時の日本は、戦後需要の増大とも相まり、日に日に進歩発展し続ける高度経済成長の幕開けの時代でもあった。
明治時代に「特別急行」の列車種別ができ、昭和初期に愛称がつき始めた日本初の特別急行列車である、富士(ふじ)、櫻(さくら)、燕(つばめ)、鷗(かもめ) 、などは、戦後も復活し「つばめ」、「へいわ」、「はと」と変遷していった。
これらの名前は、安易には使えない気がする。
223,225系「新快速」が鼻ほじって聞いてますよ。
321系普通と221、223系快速が、「あの赤い電車速いの?」って聞いてますよ。
多分嫌味と思いますよ。
それでも P-6は 速かった
新京阪電車は速い!
今の豊橋まで普通+名鉄+近鉄特急と同じか
戦後マックアーサーが来日後に走り始めた、進駐軍専用列車を教えて。
ヤンキーエキスプレス?だったっけ?
蒸気汽車で8時間半すごくね
戦前だけど今の高速バスよりも速い
50kgレールに変更した時に標準軌にすればよかったのに。
島安次郎さんが改軌論者でC51を「これが狭軌の蒸気機関車の限界」という意味で設計したところ、議員連中が「こんな凄い機関車が出来たのだから標準軌にする必要は無いよね」と言う結論を出したため国鉄はずーーーーっと狭軌のままです。改軌論に敗れた島安次郎さんは国鉄を辞職して南満州鉄道に再就職しました。
@@sasakkey2635 歴史に、もしもはご法度だけど、改軌してたら、今の新幹線も生まれてなかったのでは?と思ってしまった。
満鉄のあじあ号はすごいですよね。
@@kurihara521 たとえ標準軌化したとしても東海道、山陽本線の輸送力は限界に来るので弾丸列車構想は出てくるものと思われます。新幹線も弾丸列車も東海道本線の優等列車を新幹線に置き換えて東海道本線は普通列車と貨物しか走らせないと言う様になるでしょう。確か新幹線は東海道本線の側線と言う扱いだったと何かで読んだ覚えがあるのですがそれが何と言う本なのか覚えておりません。
@@sasakkey2635 弾丸列車計画があったから、新幹線は作ったでしょうね。
今のような新幹線じゃなかったと思うってだけです。
寝台新幹線、貨物新幹線計画もあったようなので、優等列車だけではないような気がします。
@@kurihara521 そうですね。貨物の新幹線の計画もありました。